津波で亡くなった宮城県岩沼署の瀬谷志津江警部補(37)=警視昇進=。日本の警察史上初めての女性警察官の殉職だった。交通巡視員から始まった約20年間の歩みは、一人の女性として悩みながら成長した日々でもあった。
「大丈夫って、親に連絡して」。3月11日午後3時13分、大津波警報の避難誘導に出ていた瀬谷さんから、妹の携帯電話に無事を知らせるメールが届いた。

実家周辺は交通事故が頻発し、幼いころから心を傷めていた。高校卒業後の1991年、宮城県警に採用され交通巡視員となった。

今も週末のたび、平田村の実家へ焼香に訪れる同僚らが絶えない。かつて補導した少年や少女、その親から花や手紙も届く。「瀬谷さんは遠い所に『転勤』してしまった」。そんな手紙を、三江子さんは仏前で読んで聞かせている。

危険顧みず職責果たす 殉職警官、宮城14人 2011年9月17日 河北新報
 

親身になって話を聞く警察官だった。宮城県警岩沼署少年係長、瀬谷(せや)志津江警部補(37)=警視に昇進。激しい揺れが襲ったあの日、避難誘導のために出動し津波にのまれた。遺影が掲げられた同署には、瀬谷さんに補導された少年や少女、世話になったという市民が花を手向けに訪れ、惜別の手紙が寄せられている。

「仕事の話はしたことがなかった。知らない世界で頑張ってたんだな」。福島県平田村で酪農業を営む父一男さん(60)と母三江子さん(60)は、娘の制服姿さえ見たことがなかった。

福島県郡山商業高卒業後、交通巡視員を経て97年、巡査となった。09年に警部補に昇進し岩沼署に配属。当直勤務が一緒だった巡査部長(30)は「何かあると最初に飛び出す人だった」と振り返る。
その言葉通り、地震が発生すると自発的に捜査車両に乗り込み、避難誘導に出動した。

署員は複数の住民から「女の警察官が『早く逃げてえ』と叫ぶのを聞いて空港に逃げ込んで助かった」という証言を得た。瀬谷さんのことだった。津波が迫る中、最後まで誘導を続けていたのだ。
子供の時からしっかり者。警察官になった時は周囲の誰もが「しいちゃんにぴったりだ」と言った。ボーナスが出ると、2人の妹への仕送りを欠かさない家族思いの姉だった。「暑(署)がめちゃくちゃ 大丈夫って親に連絡して」。妹に向けたメールが、家族への最後の言葉となった。

3月17日付で警察学校の教官への抜てきが決まっていた。一男さんは「警察官になった時は、『使命感持ってやんなくちゃなんねえぞ』と言ったんだ。『はいよ』って返事していたけど、本当に頑張ってたんだな」と言った後、「あんなこと言わなきゃよかったかな」と声を詰まらせた。

東日本大震災:殉職警官「しいちゃん」 最後まで避難誘導 2011年7月23日 毎日新聞