東日本大震災の津波で町職員ら41人が犠牲になった宮城県南三陸町の防災庁舎には11日、朝から多くの遺族らが訪れ、殉職者の冥福を祈って手を合わせた。

高さ12メートルの津波が到達するまで、防災無線で避難を呼び掛け続けた町職員、遠藤未希さん=当時(24)=の専門学校時代の同級生4人も喪服姿で訪れ、献花した。同県加美町の介護士、安藤香都里さん(25)は「『また来たよ』って話しかけた。本当は逃げてほしかったけど、未希ちゃんの声でみんなが助かったなら…」。

「未希ちゃん、また来たよ」「早く壊して…」 花束に埋まる防災庁舎 宮城・南三陸 2012年3月11日 産経新聞

 

防災無線で避難を呼び掛け続け、東日本大震災の津波で亡くなった宮城県南三陸町職員遠藤未希さん(24)の両親を励ましたいと、大阪府の経営者団体「盛和塾北大阪」(欠野アズ紗代表)が、両親に小型漁船1隻を贈った。
遠藤さんの両親は、同町志津川でワカメやホヤの養殖業を営んでいた。

10日は未希さんの結婚式の予定日で、両親には忘れられない贈り物になった。
自宅近くで9日、引き渡しを受けた母美恵子さん(53)は目に涙を浮かべ、「皆さんに支えられて半年がたち、前向きになってきています。泣いてばかりもいられません。船を娘と思って大切にしたい」と感謝の気持ちを述べた。父清喜さん(56)も「ワカメ養殖の準備にすぐにでも使えそう。地域の若者と一緒にやってみたい」と話した。

南三陸・故遠藤未希さんの両親に激励の贈り物・小型漁船届く 2011年9月11日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110911t13019.htm
(注意書:元の記事がウェブサイトからはずされたようです。また掲載されるかもしれないのでリンク先はそのままにしておきます)

 

「早く高台に避難してください」-。津波到達の直前まで防災無線で町民に避難を呼びかけ続けた後、行方不明になっていた女性の遺体が発見された。津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町職員、遠藤未希さん(24)。命を救われた町民や避難住民は、最後まで職務を全うした未希さんの死を悼んだ。

母親の美恵子さん(53)によると、未希さんとみられる遺体は4月23日、捜索隊が志津川湾で発見した。昨年7月に結婚した夫(24)がプレゼントしたミサンガが左足首に巻かれ、右肩にあざがあったことなどを夫が遺体の写真で確認。警察が2日、DNA鑑定で最終的に未希さんと断定した。
美恵子さんは津波で被災した自宅を片づけながら、「元気な姿で家に帰ってくることはあきらめていました。せめて遺骨をきれいな自宅に迎えたいと思って…」と、涙をこらえながら話した。

町立名足保育園の主任保育士、後藤せい子さん(57)は「約20年前、未希さんが通っていた保育園に勤務していたが、目のクリクリッとしたかわいらしい女の子の印象。役場でも誰にでも明るく気さくに接する、いい娘さんでした。(9月に)結婚式を控えていたのに残念。最後まで自分の職務を全うしようとしたのでしょう」と目を潤ませた。
未希さんの自宅近くに住む漁業、高橋照男さん(75)は「防災無線を聞いて、すぐ高台に逃げました。職務上の責任を感じ、最後までマイクを握っていたのでしょうが、残念。役場でも対応がやさしく、いい娘さんでした」と話していた。

「6メートルの津波が来ます」 最後まで放送の南三陸町職員の死を悼む 2011年5月3日 産経新聞

 

東日本大震災で、津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)。

「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。いたわりと無念さに揺れる母親。

11日、未希さんは2階で放送していた。「6メートルの津波が来ます。避難してください」。冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。海岸にいた両親にもその声は届いた。

庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。

美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。最後の方は声が震えていたという。「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。実際は怖かったと思う。母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」

それでも避難所へ逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」と清喜さんは涙ぐんだ。
「未来の未に、希望の希」。美恵子さんは娘の名前をそう説明した。

命の限り叫び続けた 防災放送の女性職員、結婚式控え安否不明 母「頑張ったね」 2011年3月29日 産経新聞