東日本大震災追悼式

 
各地で地震発生から2年の2013年3月11日午後2時46分に黙祷が行われ、数々の追悼の言葉が寄せられました。
遺族の方々の言葉をいくつかをまとめて掲載します。
 

山根りんさん 岩手県の遺族代表
東京都千代田区の国立劇場での政府主催「東日本大震災2周年追悼式」
 
私は日々便利になっている世の中を当たり前だと思っていました。
毎日学校に通い、家族と一緒にご飯を食べること、母がいつも傍(そば)に居てくれることも当たり前だと。
あの日が訪れる前までは。

高校からの帰り道、私を心配し母が迎えに来てくれました。
周りを見渡すと真っ黒い津波が遠くに見えたと思っていたのに、母と一緒に高台へと避難しようとしていた足元に濁流が近づいて来る。
「大丈夫だよ」
そう励ましながら母の背を押すように急いでいた矢先、突然、視界が真っ暗になり、気が付くと海の中にいました。

数日後、遺体安置所で見つかった母の顔を見た時「これが現実なんだ」と気づき、あの時ほど母の大切さを感じたときはありません。
あれから2年。
私はあの日より、少しだけ強くなりました。
それは、亡くなった母への想いと残された家族や友人、そして多くの方々の支えがあったからです。

全国・世界の皆様から、多くの支援物資、義援金による支援や、自衛隊、ボランティアによる温かい支援、励ましの言葉を受け、生きる希望が生まれました。

東日本大震災がつらい記憶ではなく、未来につながる記憶となるよう、被災地から私達若い世代が行動していきます。

今日こうしていることに感謝し、恩返しすること、忘れないこと、これからも自分らしく生きることを誓って、遺族代表のことばとさせていただきます。
 

「少しだけ強くなりました」 追悼式、岩手代表の18歳 朝日新聞
 
 

西城卓哉さん 宮城県の遺族代表
東京都千代田区の国立劇場での政府主催「東日本大震災2周年追悼式」
 
つらい日々がありました。
大切な家族を亡くした私たちにとって、この2年という歳月は、一日一日を生きることがこんなにも大変なことだったのかと、過ぎ行く時間の重さを感じ続けた2年でした。

ひとつだけ確かなことは、あなたがいた私の人生は、幸せだったということです。
どこにいても、何をするときでも、妻の由里子と息子の直人への想いは、片時も離れることはありませんでした。
毎日早起きしてお弁当を用意してくれたり、息子の離乳食をひとつひとつ丁寧に作ってくれたり、そんな妻に喜んでもらいたくて、休みの日に少しだけ早起きして、お掃除をしたこともありました。

この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが、弱くて未熟な自分が今こうしていられるのも、あの日から今日までに関わったすべての方々に支えてもらったからこそだと、心から思います。

自分に残されたこれからの年月をかけて、愛する2人の人生の続きを、私が歩んでいこうと思います。
あの日とともに深く心に刻まれた多くの尊い命を、私は決して忘れません。
亡くなられた方々の安息をひたすら祈念し、追悼のことばといたします。

 

「あなたがいた人生は幸せ」 震災追悼式、宮城遺族代表 朝日新聞
 
 

八津尾(やつお)初夫さん 福島県の遺族代表
東京都千代田区の国立劇場での政府主催「東日本大震災2周年追悼式」
 
あの悪夢のような震災から2年、今朝も目が覚め被害にあった自宅へ車を走らせると、やはり夢ではない現実がそこにあります。
風が吹くと砂塵(さじん)が舞う荒涼とした大地。
その向こうにかつてあったはずの緑の松原は消え去り、まぢかに迫り来る海岸線。
平穏な生活の営みがあったはずの、緑豊かな農村風景はそこにはありません。

六百数十名が犠牲になり、多くの方がいまだに家族の元へ帰って来ておりません。
認めたくない現実です。

あまりにも無防備だったことに対し深く反省し、二度とこのようなことにならないように、この惨状を後世に伝えていかなければなりません。
あの震災直後、身の危険も顧みず人命救助、行方不明の捜索をしてくださった消防団、自衛隊、警察、地元住民などで、多くの命を救っていただいたし、犠牲者の発見もしていただき、家族の元へ帰していただきましたこと、そして全国各地より物心両面でご支援いただきましたことに対し、改めて感謝申し上げます。

課題山積、前が見えませんが、本日を一つの節目とし、力を合わせ、緑豊かな元の、いや元以上の故郷、子供たちの歓声がこだまする故郷再生、再興のために努力していくことを、心をお寄せいただいた全国の皆様方に、そしてお浄土へ行ってしまった御霊(みたま)にお誓いを申し上げ、追悼のことばといたします。
 


「子供たちの歓声がこだまする故郷に」福島の遺族代表
 朝日新聞
 
 

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