高橋俊一さん(60)は、陸前高田市の交番の所長として1人で最後まで交番の中に残り、無線で避難誘導の指揮を執り続けていたということです。合同葬儀には、高橋さんの部下や同僚だった警察官も参列し、高橋さんの遺影をじっと見つめて涙をぬぐう姿が見られました。妻の美江子さんは、「ほんとに夫がいないんだという感じがせず、まだ、帰ってきそうな気持ちがします。自分が頼ってばかりだったので、ご苦労様、ありがとうと言いたいです」と話していました。

震災の犠牲 警察官の合同葬 2011年9月17日 NHKニュース
 

震災で、甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市。中心部にあった大船渡署高田幹部交番は、住民の避難誘導などに当たっていた所長の高橋俊一警視(60)=警視長昇進=ら3人が死亡した。
「警察官だから人のために死ぬのは仕方ない。本望だろう」。こう言って、高橋さんの父亨さん(88)=大船渡市末崎町=は大きく息を吐いた。

同交番はことし2月、万引などの街頭犯罪抑止で成果を挙げたことが評価され、岩手県警で初めて全国の「優秀交番」に選ばれた。
 地震発生後、所員は住民の避難誘導に当たった。中村孝祐巡査(26)は交番を出る直前、残って無線で部下に指示を飛ばす高橋さんの姿を見た。

3月15日で定年退職する予定だった。退職後は家族を呼び寄せ、みんなで暮らそうと計画していたという。「本当は」と亨さんは小さな声で付け加えた。「警察官であっても、逃げて生きていてほしかった」
亨さん宅には、岩手県沿岸の津波浸水想定区域を示す地図が残る。高橋さんが集めた。しかし、震災は高橋さんの知識をはるかに上回る規模だった。
亨さんは「過去の例を研究して、どんな災害があろうと、安全な国になってほしい」と願う。中村巡査は「心が折れそうになったこともあったが、生き残った使命感を感じる」と、仮設の高田幹部交番で職務に当たる。

危険顧みず職責果たす 殉職警官、岩手11人 2011年9月17日 河北新報
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110917t75007.htm
(注意書:元の記事がウェブサイトからはずされたようです。また掲載されるかもしれないのでリンク先はそのままにしておきます)
 

岩手県で初めて「全国優秀交番」に選ばれた大船渡署の高田幹部交番(同県陸前高田市)

高橋さんは2009年3月から県警で災害対策室長を務め、翌年2月にあったチリ地震による津波の際は陣頭指揮にあたった。岩手県大船渡市に住む高齢の両親の面倒を見るため、実家近くの勤務を願い出て、翌月に隣の陸前高田市の高田幹部交番の所長に就いた。

父の亨さん(87)は「警官としては職責を全うした。ただ、親を思って帰って来て被害にあっただけに、申し訳なく、無念です」と涙声で言った。4人の息子を育てた高橋さん。妻の美江子さん(56)は津波の1時間前に、電話で孫の声を聞かせていた。「家に帰れば優しい父親であり、夫でした」

「津波などの災害はいつ来るかわからない。もっとレベルの高い備えをしなければだめだ」。高橋さんは生前、防災の大切さを訴え講演したこともあった。

高橋さんの遺影が壁に飾られ、部下たちを見守る。「元気出して前進だ 失敗もまた前進だ」。遺影の下には、高橋さんの座右の銘が書かれている。

警官4人殉職、遺志継ぐ交番 プレハブで再出発 2011年4月23日 朝日新聞
 

津波は父親を奪った。

4月8日、俊一さんは陸前高田市の沖で見つかった。県警によると、最後まで住民の避難誘導をしていた。

亡き父に誓う「希望の記事」 2011.4.12 産經新聞
 

「津波が港の水門を越えたことを報告すると、所長は住民を避難させるよう私ら3人の部下に命じ、『ここからが俺の本当の仕事』と言い残し、無線で指揮を執るため、交番の中に入っていかれました。そのすぐ後に——」。高橋さんと日々交番に詰めてきた橋本大輔巡査(21)は震災当日の11日を回想した。
 商店街の一角にある2階建ての「高田幹部交番」。今はがれきや泥に囲まれ、無残な姿に変わり果てた。「とにかく住民思い、部下思いの人でした」。橋本さんは涙で尊敬の言葉を続けた。

定年目前の交番所長、避難指揮途中に津波 2011年3月31日 読売新聞